世界 6.下の世界が来る人の、心を縫う人

彼女の仕事は、人の心を縫うことだと言った。
 
はじめはなんのことを言ってるのか、イメージがつかめなかった。
だって、人の心って縫えるものなの?
 
しかし外から人がやってきて、自分の服をはだけて自分の心をみせたときに、なるほどこういうことなのだと理解できた。
 
心が本当に破けているのだ。
それを本当に針を使って彼女は患者の心を縫った。
 
少女は自分の心が、この人たちみたいに破けたことを考えると、身がぞくっとした。
 
心が破けた人たちは、下の世界からやってきた。
 
彼女は、屋敷の外を出て歩いたところに長い階段があり、その下に世界が広がってるのだと言った。
 
少女はその世界をみたがった。
しかし、そのとき、彼女の隠された顔からほんの少し恐ろしい顔が垣間見え、危険なことはやめなさい、と静かに言われた。
 
彼女を前にすると、少女はだだをこねられなくなってしまう。
決して彼女を嫌いなわけではない。
でも彼女の持つ「闇」に少女は耐えられなくなっていた。
 
 
ある日、また下の世界から患者があらわれ、二階の部屋で彼女は破けた心を縫いあわせた。
彼女は縫っている間、言葉を慎んだが、患者は痛みを抑えるためかよくしゃべった。
 
たいてい彼らは自分の生活のひどさ、不平不満、時には憎しみや呪いの言葉をしゃべった。
彼らの口から表現される下の世界は地獄だった。
人と人は憎しみあい、あらゆるものを奪いあっていた。
彼女は時折、ため息をもらした。
 
少女は彼女が下の世界のことを知っているように感じたので、食事の席などで間をぬって下の世界のことを聞いてみた。
しかし彼女はただ、知らなくていいものを知る必要はない、と言っただけだった。
 
彼女と住み始めてからどれくらいっただろう?
次第に少女と彼女の距離は近づき、彼女は少女の心に浸食しはじめた。
 
少女が寝室で鏡をみると、そこには彼女が映し出された。
 
 
下の世界の住人でよく来る常連さんがいた。
彼は自分のことを「パン」と言い、少女にも名前を付けてあげると言った。
 
「マリーがいいじゃないか?だって神聖な名前だもんな。そうだ、今日からお前はマリーにしよう」と、上機嫌でパンは言った。
 
しかし同時に彼女が部屋に入ってきて、やめてください、とぴしゃりと言った。
 
パンが帰った後、少女は名前について議論をもちかけた。
わたしは名前がほしい、名前で呼ばれたい、外にも出たいし、下の世界を見てみたい。
 
「お母さんの名前を読んでみたいの」
 
自分の口から「お母さん」という言葉が出てきたことに、彼女は驚いた。
 
言葉にしてみてはじめて、彼女が母親に見えてきた。
あなたはわたしのお母さんなの?
 
彼女は少女に、名前は自分でみつけるものなのよ、と言った。
 
てことは名前はどこかに落ちてるものなの?
 
彼女は答えなかった。
 
少女は一晩中考えが走って眠れなかった。
わたしのこと、彼女のこと、名前のこと、この世界のこと、下の世界のこと。
 
答えはみつからなかった。

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